ボランティア  岡田要

社内での呼び名...かーくん(笑)

誕生日...11月22日

<略歴>

1968(昭和43)年11月 堺市生まれ

脳性マヒを持って生まれる。右半身麻痺により、ひざ、ひじ、股関節等にゆがみがあり、歩行の困難や、言語障害がある。

知的障害はないので、中学卒業まで地元学校で普通教育を受け、高校卒業後、障がい枠で山崎製パン株式会社に就職。食パン課、菓子パン課、東京本社にて営業2部(係長)。

課長代理就任後、退職。

その後、無認可作業所や地域社会でのボランティをしながら社会貢献を続ける。

一般就職、運転免許取得、結婚など必死に世間に追いつこうと腐心するもストレスにてうつ病を発症。その後、不思議なご縁でGVPに・・・。

​-ボランティアのきっか

自分の子どもがココの放課後等デイサービスに通うようになり、お迎えに来た時に代表の藤原さんと色々話しをするようになったのがきっかけです。2018年の5月頃でした。

 

それまでの約10年、鬱で入退院を繰り返していたときで、(時間があったので)何かお手伝いがしたいなと思いました。

 

僕がしんどくなったきっかけは結婚でした。軽い身体障害者の奥さんとの間に子供ができ、「頑張らないと!」と思って、仕事をし、朝から夜遅くまで働いてました。

そんな中で、奥さんのこと、子供のこと、どっちも心配になって、パニックが起きたんです。

家族3人で住んでいて、夜に子どもが泣く、奥さんが起きる。僕が手伝う。でも、思う様に体が動かない。うまく行かない。こういった理想と現実のギャップ、将来への漠然とした不安からでした。

入退院を続け、家に引きこもる。そんな時に、相談支援員さんから、精神の手帳を取る様に勧められ、取得しました。

 

ガイドヘルパーを使って、週三回、散歩で外に出る様になりました。その頃、奥さんの家事援助で入っていたのが、ココのひかりケアステーションでした。

 

みるくはうすにお迎えに来るようになり、放課後等デイサービスの支援を見て「時代は変わったなー」とつくづく思った。

​-放課後等デイサービスはどう思いましたか?

第一印象は甘いなーと思った。障害者のために、こんな物(支援制度や設備)を作らなくても、、、と。ぼくの時代とは違い、色々な権利やサービスがありすぎて混乱した。

僕自身は、小中は普通の学校に行って、「高校どないしよ?」ってときに、いっぱい行ける高校(選択肢)はあったんですが、卒業後の就職を考え、就職率の高い養護学校へ行きました。

 

当時、養護学校の先生からは「自分のために就職するんじゃなく、後輩たちのために頑張るんだ」と言われてきました。父親も昭和一ケタ生まれの世代で、社会的にもかなり成功していた人でした。バリバリの昭和の根性論で(笑)ドツかれ、シバかれながら歯を食いしばって努力するのが当たり前。いじめられたし、ポンコツ人間や出来損ないや、恥じさらしやと言われながらも、一般社会に追いつく根性をつけろと。

 

18歳で就職し、12年目のある日、毎日の業務連絡の電話をしたとき、いつもの同僚から「えっ?もう一回言って?」と言われた。なんの悪気もなく聞き返してくれただけですが、「何年も一緒に働いているのに・・・。」と、いつまでも埋まらない壁のようなものを感じてしまい気持ちが落ちていったんです。

 

会社から「休みを取れ」と言われたけど、母親からは「会社辞めてくれへんか?」「十分働いたから」と言われた。ぼくも混乱していたので、どこまでが十分なのか分からなくなっていました。

自分が頑張るのは、障がい者の後輩達の為もあると必死に背負っていたものがあるんで、後悔とか無念とか、罪責感がありました。

 

会社を辞めて家にいる時に、ある人から声を掛けてもらって「障がい者って家にいるばっかりで行くところがない」「行き場をつくる運動」という、無認可作業所の権利獲得の集まりに月一回、参加したりしてました。その頃、病院や余暇活動を利用する障害者さんの送迎ドライバーのボランティアもしていたんですが、もう一度フルタイムで働きたい気持ちになってきました。

その作業所が社会福祉法人になるかならないかの頃に、理事長から「障がい者の岡田くんが先頭に立って動いて欲しい」と言って頂き、正社員として、移送サービスをメインに働き始めました。働きながら、時間があれば障がい者にとって良い社会をつくるための活動として、役所に行ったり色々な活動をしていました。

今まで、色々とあったんですが、、、「養護学校卒業後、大手で働く→転職→子どもができ、子どもに障がいがあることが分かりショックで引きこもる」とか紆余曲折です。

 

仮に子どもが健常だったら、子どもがしんどかったんじゃないかな?とも思った。自分が親として模範を見せられへん、障害者には健常の子どもは育てられないと思っていました。

-今、どうですか?

今、心の安定感がすごい。

引きこもっていた間は育ってきた時代や周囲の人の価値観が頭を駆け巡り、自分の自己肯定感がものすごく低かったんです。(日常生活や一般的な基準が)できてない現実が自分を責めて、やり場がなくなって鬱になりました。

みるくはうすでボランティをはじめてからの1年は本当に衝撃的で、価値観の戦いでした。ありのままで、存在価値を認められる。自分のできることだけ、できること(その程度)しかやれていないのに、役割を果たしていると言われる、認められること。認められていることを受け入れること。気持ち悪くて、甘えてるという責めがきて・・・。(火)(水)(木)からスタートして、少しずつ、時間と曜日を増やしていく中で、子ども達は無条件にぼくの存在を認めてくれました。

 

でも僕がそういう「役に立ててないと価値がない」という考えを持ったままボランティアに入っていると、みるくはうすの子ども達に岡田さんが「役に立たない人間は無価値だ」とメッセージを送ってることと同じだよと言われ、ハッとしました。

みるくはうすのテーマソングで、子ども達と先生達がよく歌う「君は愛されるために生まれた」という歌があります。この曲を聴いたとき、ぼくは受け入れられませんでした。何もできず、認められる為に「もっともっと頑張らないと!」と思っていた自分には、何もせずに、役にも立てずに愛される・価値があるというのは衝撃だった。でもずっと心は苦しく、おびえていました。もう怒られたくないって。

その歌を聞いたり、子ども達と一緒に歌うとき、いつも涙が止まらなくて苦しかったです。頭でわかっても自分のこころが解放されるまで、葛藤を繰り返していました。1年とちょっとたったある日、藤原さんに「どっちが真実の価値観か?」「どっちの価値観で子ども達を愛していくのか?」「あなたの心はどっちを望んでるのか?」と聞かれた夜があって・・・。

 

相談支援さんも入れて作った僕の支援計画には、みるくはうすのボランティアをとおして「頑張りすぎないことを、頑張る」というミッションがあります。認められる為に、無理して、なんでもやりますと積極的に手をあげてもその動機が間違ってることを指摘されてきました。

「僕の思う頑張ってる」と「周囲の思う頑張ってる」のすり合わせ。

自分の存在価値を受け止めるところから始めることが出来ました。

 

良い意味で、僕みたいに「自分は最低だ、価値がない」と思って欲しくないです。

でも生きていくにはツライ事も努力もつきものなんで、「周りの人たちが何でもやってくれるよと伝えたい」と言いながら、自分で「本音で言っているのか?」と自問自答することもあります。

 

でも1年半たって、人の目、どう見られているか?を気にしなくなり、全部をしなくても、自分の役割を果たすことの大切さを教えてもらいました。

今までは(認められるために)浅く広くだったが、今は(自分の役割を)狭く深く。

 

ココに来て、家の雰囲気も良くなりました。僕が乱れたり暴れたりすることもないですし、生活のリズムも出来たので、家に帰ると「お疲れ様でした」と奥さんが言ってくれる。

子どもも寄ってきてくれる様になりました。本当に最高です。

 

心も体も、健康でいるのが大切。

「あれも、これも出来ます」ではなくて、「ここに関しては誰にも負けません、しっかりやります」

そういう人に自分がなりたい。1人ではなく周囲の人たちと一緒にやっていくことが大切で、「自分、自分」でなくて良い。

 

​当時、ボランティアしたいって言える勇気が自分にあったことにも驚いています。自分から発信していくことの大切さを改めて感じました。言ってよかったなぁって。

 

​これからは、可能な限り、ここで障がいのある子ども達が、どういう大人になるか見届けたい。

社会の中の障害児・者の地位を上げていきたいと思うし、人間的に成長していきたい。

 

「一度の成功よりも、100個の失敗」の方に価値があると思っています。